14 ゴールドストーン(信頼)
長寿犬としての一生を終え、僕があの世へ旅立って半月程経ちました。
ここのところ仕事を終えて帰ってくるお父さんお母さんは、夕飯の後何となく手持ち無沙汰に時を過ごしている様だ。
先週は二人で港北ニュータウンまで映画のレイトショウを見に行っていた。
レイトショウだといくらか安くなるからと、少しテレビを見て時間を調整して出かけて行った。
チケット売り場で料金表を見て少し愕然としている二人。
何も時間調整しなくても二人共1番安いシニア料金が適用される歳なのだ。
二人で顔を見合わせ、ちょっと得をしたような、それでいて公に年寄り扱いされる事に抵抗を覚えつつ愕然とするのである。
二人はまだまだ気分は若い、いや現実に若い、たまにやる親子3組の夫婦対抗ボウリング合戦でも、昔採った杵柄で何時もトップである。
遊びに関してはまだまだ息子達には負けていません。
映画の帰りにはカラオケにより、2時間たっぷりポップス、ジャズ、歌謡曲を歌いまくり帰って来ました。
お仏壇に「ただいま」と、「おやすみ」の挨拶をしてお灯明のスイッチを切りリビングに上がって来た二人の会話は「リキの事を気にしないで遊びに行けるのはいいけど、何かものたんないね」である。
特にお母さんはまだまだ寂しさを忘れ切れない様である。
お父さんは好きなプロ野球が始り、それなりに夕食後の楽しみを確保している。
只最近のプロ野球中継が通常のチャンネルでなく、BS放送だったりケーブル放送のチャンネルでしか見られず、リビングのテレビを独占してしまう事に少し肩身の狭い思いをしている。
お母さんが見たい番組のある時には「じゃ、下の部屋で見るよ」とはいかなくなったのだ。
お父さんは物心ついた頃から絶対の巨人ファンで、長嶋派である。
お父さんが東京に引っ越して来て、始めて住んだのが多摩川園だった。
当時中学生だったお父さんは時々あの多摩川グランドに巨人軍の練習を見に行った。
ONの最盛期に他の巨人軍選手のオーラをも身近に見ていた。
そしてそれらのオーラが彼らの猛練習猛特訓から得られた物である事を目の当たりにして来た。
大学を卒業し商売を継いだお父さんは、時々仕事の合間に多摩川グランドへ巨人軍の練習を見に行っていた。
ある時監督になっていた長嶋さんが、自らバッティングピッチャーをかって出て一人の選手を特訓していた。
前のシーズンに少し活躍し始めた「まむし」の異名をもつあの柳田である。
3塁側のフェンスに寄りかかって暫く見ていると「なんだ、もうバテたか?オレはまだまだいけるぞ、ほらしっかりしろ、こっちの方へ打ち返せ。行くぞいいな」と、バッティングの特訓中なのだ。
「カーンッ」我々凡人には良い音にしか聞こえないフェンス越えの打球音にも「まだまだこすってるぞ、もっと芯にぶつけて来い、ほら行くぞ」と、矢継ぎ早の投球である。
選手も長嶋監督自らのバッティングピッチャーじゃ気も抜けない。
「カーンッ」センターオーバー120メートルの打球を放つ「そうっ、それだ、今のだ、良いかもう一丁」
「カーンッ」ちょっと左中間へずれるが110メートルのフェンス越え。
「おいっ、叉こすった。あれじゃ駄目だ、もっとグウーッと腰を入れてバアーンとしっかり打ち返せ、いいかッ行くぞ」と、終わりそうにない特訓風景が続いていた。
見ている方もだんだん引き込まれる熱意である。
真剣に見入っているお父さんのほうへ、レフトの方から一人のアンダーシャツ姿の男の人が近づいて来た。
地元の商店街で知り合ったこの多摩川グランドのグランドキーパーの山本さんである。
同じ中学の出身で3、4年先輩の彼は、商売を継いだと言う事で「社長」とお父さんの事を呼んでいた。
「社長、何、仕事の合間?」と、お父さんに声を掛けた。
「そう、ちょっと品物待ちで時間が出来たから」と、フェンス越しに言葉を交わした。
お父さんは「すごいね、特訓中?」と、聞いてみた。
山本さんは「そう、もう1時間以上続いてるかな」
「へえーっ、スゴイ熱意だね、どっちも大変だ」と、お父さんが言うと
「でも、この熱意を与えて貰える選手は幸せなんだよ」と、山本さんは自分も昔この巨人軍のテスト生候補だったが足に怪我をして断念した事への思いをよぎらせていた。
お父さんと山本さんが立ち話をしていると、やっと特訓が一段落したのか汗を拭き拭き監督が二人の方へ近づいて来た。
「おーっヤンチ、お友達か」と、山本さんに声を掛けてきた。
「ええっ監督、地元の商店街の社長です」と、その頃まだ若いお父さんを社長呼ばわりをしておどけて見せた。
長嶋監督がお父さんの若さを確認しながら、ホーウッと言う顔するものだから、ついお父さんも「いやいや社長なんてとんでもないっす、ただ商売を継いだだけですよ」と、思わず声を交わしてしまった。そう、あの長嶋監督とである。
こんな時にはそれ程威圧感を与えない極々優しい長嶋さんであった。
「監督自ら投げるんですね、大変ですね」と、お父さんも自然に言葉を掛けた。
「いやー、これも仕事だから」と、汗を拭く長嶋さんであった。
親しげににこやかに二人の傍にいる監督に山本さんは「監督なんか儲かる商売ないっすかね」と、更に打ち解けた口調で話をした。
「なーに、あったらこっちが教えてもらいたいよ」と、おどけながら少し汗が引いたのか叉柳田選手の傍に行き、今度は身振り手振りで技術指導に熱くなっていた。
例の説明とは言い難い「腰ををグウーッとまわして、バアーンとぶつける」と言った擬音の多い激しい口調の言葉が選手に告げられる。
選手は言葉の内容より監督の熱意を汲み取るといった感じの指導である。
そしてこの年柳田は史上最強の5番打者と言われる選手にまで成長した。
一言二言とは言え普通の会話を、直接監督と交わせた事もあって、お父さんの人としての長嶋崇拝は一段と本物になっていった。
不可能に近いと言われながら長嶋監督一人が最後まで諦めず、選手を信頼しきって達成したあのミラクル優勝など、正に長嶋監督の情熱が選手を動かす信頼関係がそこにあったのであろう。
この情熱の塊のような長嶋監督にも克てない物があったようだ。
ストレスである。
この人だけはストレスと言う物を感じた事がないのではと思える程のマイペースを守りきっていたはずだった。
しかし、4年前のオリンピックへの出場を、そして金メダルを取るべく結成された長嶋ジャパンの監督と言う大任は、相当にきつかった様である。
その時プロ野球で活躍している一線級の選手を集めたドリームチームは、勝って当たり前の史上命令と共に、サッカー人気に少し押され気味の野球界に光明をもたらす大きな役割を担っていた。
アジア予選をドリームチームのキャプテンとして戦った、あのヤクルトの宮本選手が、「本当に勝てて良かったです。日本代表というのがこんなにきつい物だとは思いもしませんでした。」と、試合後ロッツカールームで思わず始ってしまったビール掛けを心から喜び、本当にホットしたと言う本音のインタビューに答えていた。
勝負事の中で勝って当たり前、日本中の期待を一身に受けるプレッシャーは、相当の物の様であった。
格下のアジア勢とは言え、負けが許されない中での戦いは、プレッシャーその物かもしれない。
そんな中、当の長嶋監督の相変わらずの笑顔は、プレッシャーなど感じていない様な、むしろプレッシャーをも楽しんでいる様にさえ見えた。
そして、信頼しきっている選手達は、見事に活躍し全勝でオリンピックへの切符を日本にもたらしたのである。
野球ファンは久し振りにドキドキハラハラの末に感じる歓喜に酔いしれた。
そして、その中心にあの長嶋監督がいてくれた。
お父さんはやっぱり長嶋さんだと思った。
プレッシャーを感じるだけ感じてチャンスで打席に向かうバッターに何かを耳打ちする監督の信頼の一言、1点もやれない状況で最終回のマウンドに向うピッチャーを送り出す信頼に満ちた笑顔は、何よりも選手を勇気付けていた。
実際に自分で打ち、自分で投げる事の無いゲームの中で、長嶋さんは選手と一緒に打席に立ち、マウンドに立って戦っていた。
日本中のファンを背中にしょって、一緒に戦ってくれていた。
そして、勝利を掴み取ってくれたのである。
ファンは更にその先の栄光を期待した。
オリンピック本大会での金メダルである。
しかし、長嶋監督の中で何かが今までに無いストレスを引き起こしていた様だ。
そして、『長嶋監督が脳梗塞で倒れた』と言う報道がながれた。
掛け付けた家族の後の談話の中に、病院に担ぎ込まれた時の形相はとても助かるとは思えない程のものであったらしい。
日本中のファンは先ずショックを受けた。
驚きや心配と言うより、兎に角ショックであった。
あの長嶋さんが倒れるとは、想像し難い事実だったのだ。
お父さんにとっても、何か絶対で無くてはならない一つの憧れが、崩れて行く気がした。
ファンと言うのはかってな者で、当の本人とは全く別の所で長嶋さんの元気な姿を自分の守り神のような物に仕立て、気落ちした時の発奮材料に長嶋さんの笑顔を期待するのだ。
そして、長嶋監督が人の子であることさえ忘れ、全てを託すというわがままに出るのだ。
そんなファンのわがままを快く受け入れてくれていた長嶋さん。
その長嶋さんにも寄る年波と言うのがあったのか、体力・精神力で撥ね退けられないストレスがついに充満してしまった様である。
そろそろ長嶋さんにもゆっくりと楽をしてもらう時なのかも知れない。
そして、今まで恩恵を受けて来た自分達がもう一つ強くならなければならないその時なのかも知れないと、お父さんは感じ始めているのだ。