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僕がこの家に来た次の日、ここのところお母さんがとても親しくしているお友達のSEさんから、お昼前に電話が入った。
「今日は居る?」と、この時期でない土曜日には、お母さんも遊園地へ仕事に出ている事を知っているSEさんが
「おいしいパン屋さん見つけたの、一緒に行ける?」と、お誘いの電話をしてきたのだ。
土曜日なので、お兄ちゃんがお昼過ぎには帰ってくるが、お父さんも、おばあちゃんも仕事に出かけ、炊事洗濯と午前中の家事を終え、一人で退屈しそうな時間を見計らってのお誘いである。
「あら、そう、いいわねえ。」と、何時もなら二つ返事でお誘いに乗るお母さんである。
「いいわねえ、でも、ちょっとチビちゃんがいるのよねえ」と、お母さんが、ここへ来てまだ2日目の僕に視線をやりながら応対している。
「ええっ、だってNちゃんは学校でしょう。」と、同学年のお子さんを持つSEさんが聞き正した。
「そう、実は昨日からここに子犬が居るの」と、お母さんは昨日の出来事を話し始めた。
色々と経緯を聞かされたSEさんは「可愛いでしょうねえ、」と、電話口から想像できる僕の愛らしさに堪らなくなり「ねえっ、見にいっても良いっ」と、次の言葉を投げ掛けてきた。
「いいわよ、来て来て、だけどパン屋さんは」と、本当は僕を見に来て欲しい思いの方が強かったお母さんはその気半分で聞きなおした。
「あらっ、そんなの今日じゃなくても良いのよ。じゃ、これから直ぐ行くわね」と、SEさんは電話を切った。
お母さんは、今日は朝から、お兄ちゃんとお父さんを送り出した後、早速首輪とリードを着けて、僕との始めてのお散歩を楽しんだ。
そして、リビングで家事をするお母さんをチョコチョコ後追いする僕に、
「ほらっ、リキ、気を付けて、踏んじゃうよ」
「リキ、ご飯は食べたの」
「良い子だねえ、いっぱい食べたねえ、お水は」と、時々しゃがんでは楽しそうに話し掛けるのである。
何時もなら、皆を送り出した後、誰かが帰ってくるまで無言のまま過ごす事の多い時間帯に、この上ない話し相手の出現となっている様だった。
この楽しい気分にさせてくれる僕を、誰にでも自慢したい気持ちだったのだ。

10分も経たないうちに玄関のチャイムが鳴った。
応対に玄関へ行ったお母さんが、同年輩ぐらいのSEさんを連れてリビングヘ上がってきた。
周りに敷き詰められた新聞紙の上をチョコチョコ歩き回る僕を見つけSEさんは「あらーっ、可愛いわねえ、生まれてどれぐらなの、何犬、名前は」と、矢継ぎ早の質問をお母さんに投げかける。
お母さんは「リキって言うの、そうねえ、雑種でしょう」と、名前以外はあやふやな返事をした。
「リキ、おいで」と、お母さんがしゃがんで僕に呼び掛けた。
僕は差し出されたお母さんの両手の方へ駆け寄り、胸元に抱き上げられた。
「あらーっ、分かるんだ、こんなに小さいのに、可愛いねえ」と、SEさんが羨ましそうに、目は僕に釘付けのままで話した。
二人の会話が弾み始めて、僕への注目が少し柔らんできたところで、僕は居眠りをし始めてしまった。
お母さんの腕の中で眠り始めた僕を、SEさんは堪らないという目で見つめていた。相当の犬好きの様である。

10分程経ったところでお母さんが遊園地のお店にいるお父さんに電話をしていた。
「もしもし、SEさんが子犬見たいって、まだ居るよねえ」と、お母さんが言うと、
「ああ、大丈夫だと思うよ。何、飼えるって」と、お父さんは里親探しの続きがある事を思い出していた。
「今SEさんがリキを見に来てるの。ちょうど飼いたいと思っていたところだったんだって。番犬にしたいんで血統書付きの犬を探していたらしいんだけどさあ」と、お母さんがSEさんとの会話の内容を伝えた。
「ああそう、それじゃ、しょうがないかー」と、ちょっと残念そうにお父さんが答えるのをさえぎる様にお母さんが、
「それがさあ、リキを見てるうちに堪らなくなって、この子の兄弟でしょ、なら是非見たいって」と、続けた。
「ああそう、それなら直ぐに来れば、そろそろ昼休だし、T君に電話しておくよ」と、お父さんは何か期待めいたものを感じながら電話を切った。
お母さんはお兄ちゃんが学校から帰ってくるまでまだ4、50分あるからと、昼寝を始めた僕をミカン箱のベッドにそうっと下ろし、SEさんと遊園地の詰所へ向かった。
気性のさっぱりした行動力のあるSEさんは、車の運転も男勝りで熟れたものであった。
30分ぐらい経った遊園地からの帰りのSEさんの車の中には、僕の弟も同乗していたのである。

家の前でSEさんと別れたお母さんが、ニコニコ顔でリビングに上がって来た。
眠りから醒め始めミカン箱のベッドの上でモソモソしていた僕を抱き上げたお母さんは、
「リキーっ、良かったねえ、アナタの兄弟がSEさん家の子になるって」と、ちょっと興奮気味に話した。
お母さんの心の中には、僕とこの家族との巡り逢いが、今後の僕にとって確かな幸せを予感させるものである以上、同じ運命にあった僕の兄弟達にも、それなりの幸せを予感させる巡り逢いがあって欲しいとの強い思いがあったのである。
遊園地の店にいるお父さんの思いも同じであった。
僕と一緒に暮す事を決めたお父さんの心の中で、Tさんの手助けのつもりの里親探しが、僕の兄弟の誰一人も欠けてはならない幸せ探しになっていたのだ。


土曜日と言う事で少し入園者の期待できる遊園地の店には、翌日の日曜日の準備もあり、お父さんとEちゃん、そしてお父さんの会社の只一人の男の正社員で、平日は営業の外回りをしているSAさんの3人が詰めていた。
SAさんはお父さんと仕事を始めて10年近くになり、まじめに働く事では遊園地でも評判を得ていて、お父さんにとっては右腕的存在であった。
結婚し、2人の子供にも恵まれ、幸せな家庭を築いていた。
お父さんはSAさんを、住まいが公団と言う事で今回の里親探しのターゲットからは外して考えていたが、当然彼にも里親探しの協力だけは頼んであった。
Tさんと歳も近く親しくしていた彼は、Tさんからも頼まれていたのであった。

少し興奮気味のお母さんから店に電話が入った「SEさんが1匹連れて帰ってくれたわよ」
「ええっ、本当、それは良かった、でも血統書付きじゃなくて良かったの」と、お父さんが嬉しそうに応対した。
「うん、でも育て易さから考えれば、この子の方がいいわねえと言って、喜んで帰ったわよ」と、お母さんが言った。
「で、どの子にしたの?」と、お父さんが聞いた。
「少し小さいけど元気そうで、良く走り回ってた男の子にしたの」と、お母さんが答えた。
「ああ、そう、それは何よりだ、T君も喜んでたでしょう。ありがとう、じゃあねえ」と、ホッとした表情でお父さんは電話を切った。
電話の内容が僕達の事らしいと、傍耳を立てていたEちゃんが、
「良かったですねえ、後一匹ですねえ」と、自分が打診している里親がかなり自信ありそうな言葉を吐いた。
朝からの3人の会話の中に、お父さんは今日の寝不足が、つらいだけの物では無い事を話していた。
その時には、明日朝メス2匹の引き取り手が見に来てくれるので、30分程だけ持ち場を離れる許可を得たいと言う話しだけは出ていた。
それが、今は、1匹2匹と引き取り手が現れ、それが僕達の愛らしさを目の当たりにした為であろうという思いが、明日の出逢いも絶対にと言う確信に変わって来ていたのである。

翌日の朝、遊園地が賑わう前に、妹達2人は引き取られていった。
その日も3人で詰めていたお店に、里親探しの役目を終えたEちゃんが意気揚揚と嬉しそうに戻ってきた。
「喜んで連れて行ってくれました。」と、お父さんに報告をしながら「後1匹なんですよねえ」と、Eちゃんはちょっと肩を落とした。
「そうだなあ、ここまで来たら、何とかしたいねえ」と、お父さんは里親探しの最後の詰めを頭に浮かべた。
ちょうどその時、日曜日用の店構えにする為の下準備をしに、店の外に出ていたSAさんが店に入って来て、
「どうだった?」と、戻ってきて報告をし始めたEちゃんに、実は自分も気をもんでいたんだと言う素振で尋ねた。
「うまくいきましたよ」と、自慢気に答えながらEちゃんは「あと1匹なんです、SAさんどうにかなりません」と、思わず強めの言葉を投げかけた。
SAさんはニタリとした笑みを浮かべながら、Tさんに頼まれた時から気に掛けていて、昨日の夕方帰り際にも見に行っていた事を告げた。
そして奥さんの実家で飼っていた犬が居なくなって暫く経ち、又飼いたいなあと思っているところだったらしい事を、昨日聞いたと話し始めた。
「ええっ、なんだそうだったの、それでどうなの?」と、お父さんはSAさんの話しの確かさを聞いた。
SAさんは「ええ、今日実家へ話しに行っているんで、OKなら連絡が入ります」と、安心しきれない言葉を返してきた。
お父さんは、何とも積極的でないSAさんの何時もの言葉に少しイラ付きながらも、ぬか喜びの大風呂敷は広げられないその生真面目さに期待して、吉報だけを信じることにした。

翌朝一番で開園前の遊園地から、最後に一人残ってしょんぼりと朝を向えた僕達のお兄ちゃんが、SAさんの奥さんの運転する車に乗せられ、SAさんの住まいのわりと近くの、奥さんの実家へと旅立って行った。
僕達にとって、僕達5匹兄弟の誰一人欠ける事無く、引き取られる家族が見つかった事は、とても大切な、とても重要な事だったのである。
そして、僕の夜鳴きはこの日以来ぴたっと収まり、お父さんの寝不足の原因もすっかり解消されたのである。


一週間ほど前には風前の灯火とも思えた僕達5匹の幼い命は、Tさんの思いが、お父さんお母さんの思いと繋がり、そしてEちゃんやSAさんの思いに広がり、あの夜空の星ほども輝けなかったかもしれない命が、今は冬の寒ささえも跳ね除ける、神々しい光を放つ太陽にも負けないぐらいに光輝く命となり得たのである。
僕達の命の光は、飼い主自身が心を開けば、その心を照らし、その傷を癒し、財を守り、愛情の意味を授ける事の出来る素晴らしい物の様である。

僕の名前は『リキ』、ここから、僕がこの家族と幸せを分かち合う、素適な物語が始まったのである。