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8時半頃に一本の電話が入った。
お父さんが出て「はいっ、分かった」と、何時も通りと思える短い応対で電話を切った。
お母さんが「二子?」と、何時も通りの会話を交わし、夫々の顔に少し安堵の表情が増す。
食後に、新聞紙の上にしてしまったウンチ騒ぎも、お母さんが「おお、くさいねえ、まだ小さいからしょうがないよねえ。そうそう、この上にするんだよ」と、叱る事もせず、後始末をしてくれた。
初めは『うわっ』と、困った顔つきをしてしまったお兄ちゃんは、くさい物からも目を背けないお母さんのその様子に、尊敬の思いを持ちつつ、「今度はお外で出来る様にしようね」と、僕にさとす様に告げ、頭を撫でに来てくれた。
トイレットペーパーを用意したり、替えの古新聞を用意したりと、後始末の手助けをしていたお父さんは、この二人の様子に、にこにこと満足そうにしていた。
僕は夕食後の家族の団らんの中に、すっかり落ち着いて溶け込んでいた。

電話がかかってから、10分程経ってお父さんが「さあっ、行って来るか」と、ソファーから立ち上がり出掛けて行った。
この家のもう一人の家族、60なかばを過ぎても身体の動く限り続けると、自分の小さなお店を開けている、おばあちゃんのお迎えである。
今日のお父さんの最後のお仕事なのである。
お酒を1滴も飲まないお父さんは、家族の誰かが出かけている限り、駅までのお迎えは自分の仕事と決めているのだ。
お兄ちゃんの塾通いのある日は、塾までのお迎えと、おばあちゃんの駅までのお迎えは、好きなスポーツ番組のテレビ観戦がどんなにいい場面になっていても、時間がくればこれだけは自分の仕事と出かけて行くのだ。


15分程でおばあちゃんが帰ってきた。
お兄ちゃんが僕を又胸元に抱え、勇んでお迎えに玄関へに行った。
何時もなら、おばあちゃんが玄関横の畳の自分の部屋に入り、落ち着いた頃を見計らっておばあちゃんに甘えに行くお兄ちゃんが、その帰りを待ちかねた様に玄関に現れたのである。
おばあちゃんは直ぐに僕に気がつき「あれっ、どうしたんえ、まあっ、かわいいなあ」と、東京へ出て来て30年以上経つのに、家族の中では京都弁丸出しの言葉で、その驚きを伝えた。
お兄ちゃんと僕はそのままおばあちゃんの部屋へ入った。
お兄ちゃんは「リキって言うんだよ、ねっ、リキ」と、出来たばっかりの弟分を、今日の出来事と一緒に一生懸命紹介していた。
着替えをしながらおばあちゃんは「へえーっ、それは良かったなあ」と、僕でもなくお兄ちゃんにでもなくその言葉を投げかけた。
僕への 『この家に来れて良かったね』以上に『かわいい弟分が出来て良かったね』のお兄ちゃんへの思いの方が強そうではあった。
お兄ちゃんは僕を畳の上に降ろし歩かせてくれた。
始めての畳の部屋、フローリングの床の様には滑らないが、じゃれて身構え前足をふんばるとちょっと爪が引っかかった。
着替えを終えコタツの座椅子に腰を下ろしたおばあちゃんは、「どれどれ、まあ、ほんまにええ顔てるなあ、賢そうな。へえーっ」と、僕を抱き寄せた。
歳のせいか少しカサカサした手ではあったが、今でも仕事をしているしっかりとした腕の力に、僕は安心して身体を預ける事が出来た。
この部屋には大き過ぎるぐらいの黒塗りのお仏壇があった。
その上の方には、おじいちゃんらしき人の写真が掛けられていた。

これで、この家の家族全員へのお目通りも叶い、この上なく優しく暖かく迎えられた僕は今日から『リキ』として、この家の一員となり、一緒に暮す事になった。
まだ小さい僕は、階段を上へも下へも行けず、専らリビングダイニングをその生活範囲とする事になった。
夜は取り敢えずとばかりに、ミカン箱にお兄ちゃんの低学年の時使っていた学習椅子の座布団を敷いた僕用のベッドが用意された。

今夜はこの家で始めて迎える夜である。
10時半頃にお兄ちゃんとお父さんで、「寝る前にもう一度オシッコに行っておこう」と、裏の駐車場へ連れて行ってくれた。
外はエアコンの効いているリビングとは違って、深々と冷えていた。
首輪もリードも夜下ろしたくないと、何も着けずに出ていった。
駐車場に下ろされると、地面の冷たさが足の肉球を通して身体に伝わり、ブルブルと身震いした。
チョコチョコ歩き回る間もなくオシッコが出た。
「おおっ、出たね。本当だ、いい子だね」と、お父さんが言った。
「ねっ、本当に良い子でしょう。」と、お兄ちゃんが自慢気にお父さんに伝えた。
二人は駐車場の道路側にフェンスを作る様にしゃがんでいた。
僕はオシッコをしながら見上げた冬の夜空に、いっぱい輝いている星を見つけ、あの日の遊園地の駐車場の夜を思い出していた。
「さあっ、冷えるから中に入ろう」と、お父さんが言うと、
「はいっ、リキおいで」と、お兄ちゃんが又あの抱き籠に入れてくれた。
あの寒さを凌ぐのに精一杯だったあの日の想い出は、直ぐに掻き消された。

11時を過ぎる頃には、夫々が順番にお風呂を済ませ、パジャマの上に何かを羽織った姿で僕に「おやすみ」の挨拶をして、夫々の部屋へ戻っていった。
それと、入れ替える用に最後にお風呂から出て来たお父さんが、ガウン姿でリビングに降りてきた。
「さあっ、リキもねんねかな、今日は始めての事が一杯で疲れたでしょう」と、僕をミカン箱のベッドに入れてくれて、
「そうか、一人で寝るのは今日が始めてかな?鳴かないで寝てくれよ」と、お父さんは僕の頭を撫でながら脇のソファーに腰を下ろし、テレビを見ていた。
お父さんのお風呂上りの手はとても暖かく、僕の身体に触れていてくれるだけでとても安心出来、小さく絞られたテレビの音は、誰かが傍にいてくれる感じがして、直ぐに眠りにつくことが出来た。
この家ではお父さんが、皆が寝静まった事を確認してから、最後にリビングの電気を消して眠りに行く様である。
一休みしたお父さんは、僕がスヤスヤ眠っている事を確認すると、そうーっと僕に触れていた手を抜き、テレビ、エアコンを切り、電気を消して寝室へ上がって行った。

リビンクのエアコンが切られてから、2、30分もすると気温がどんどん下がり始めた。
それまで人気もあり心地よいぬくもりで一杯だったこの部屋にも、冬の厳しい寒さが顔出す。
外とは比較にならないぐらい、緩やかな冷え込みなのだろうが、それまでのぬくもりが大きいものであっただけに、身体に感じ始めてしまうのだ。
僕はさっき見た夜空の星と、あの日見た遊園地の駐車場の広ーい、大きな夜空一杯の星たちが重なる夢を見ていた。
寒さを感じ始めた僕は、眠ったまま身体を丸くした。
そして、鼻先で兄弟達のぬくもりを探した。
半分眠ったまま、丸くした身体を又少し伸ばし、身体を潜り込ませようと探してみたが、ぬくもりにはぶつからなかった。
僕は目を覚ましてしまった。
お兄ちゃんや弟、妹達の誰もそこにはいなかった。
僕は、立ち上がりミカン箱の外へ目をやった。
薄暗い闇の中に、テレビやミニコンポ等のスイッチの所のインジケーターランプの小さな光だけが、夜行性動物の片目の様に鋭く光っていた。
周りは白い壁紙だけがぼんやり浮き上がり、迫ってくる様にさえ思えた。
僕は一人でここに居ることに気が付き、とても寂しく、怖くて不安になった。
心細くて、つい「クーン、クーン」と、生まれて始めての悲しい鳴き声を出してしまった。
悲しく鳴いてみても、何も変わらなかった。
「クーン、クーン」と言うかすれた様なか細い鳴き声は、薄暗い部屋に響くだけで、一層悲しくなった。
僕は勇気を出して思いきり鳴いてみた。
「キャン、」「クーン、クーン」「キャン、キャン」「クーン」

階段の上の寝室のドアが開く音がした。
お父さんがガウンの前合わせを深く合わせ、腰紐をしっかり締めながら、スリッパの音を押さえる様に階段を降りて来た。
お父さんが寝床について、まだ30分ぐらいしか経っていなかった様だ。
リビングに入り階段へのアコーデオンドアを閉め、キッチンの方の小さ目の明かりを点け、人の気配がしてもまだ「クーン、クーンと、鳴き続ける僕の方へ近寄ってきたお父さんは、
「どうした、リキ、寂しいのか」と、小声で声を掛け手を差し出し、頭から背中を優しく撫でてくれた。
「おいおい、リキ、お前振るえているじゃないか」と、お父さんは驚いた様子で、普段の声の大きさに戻り、両手で僕を抱き上げ「可哀想に、一人で怖かったのか、リキ」と、僕を胸元に引き寄せてくれた。
お父さんの「リキ」の声の響きに、やっと身体の強張りをやわらげ始めた僕は「クーウッ」と、甘えた声が出せる様になってきた。
お父さんは、しっかり合わせたガウンの胸元を少し緩め、そこに僕を入れてくれた。
そして、腹をくくったかの様に「ようーし、しょうがないかっ」と、言いながらエアコンのスイッチを入れ、ひざ掛け用の毛布を足元に巻きつけ、ソファーの上に横になった。
僕はお父さんの胸元のガウンの中ですっかり落ち着きを取り戻し、今日の嬉しかった出来事を思い起こせるようになっていた。
お父さんの胸元は温かく、どこまでも優しさと安堵感与えてくれる、僕の宝物になっていました。
僕は少しトローンとしはじめながらも、鼻先にあるお父さんの顎の辺りをペロペロし続けました。
この宝物を絶対離さない、僕の物なんだと言う思いがそうさせていた様です。
そして、僕の中では独り立ち出来そうな思いも生まれて来たのです。
僕が大きくなってからもし続けた、お父さんとの儀式の始まりはここにあったのかも知れません。

「よしよし、良い子だ、リキ、大丈夫だからねんねしなさい」と、僕の頭を優しく撫でてくれるお父さんも眠そうでした。
もう、とっくに夜中の2時を過ぎている様でした。
お父さんは、スヤスヤと眠り始めた僕の寝息が落ち着くのを待って、そうーっと僕をミカン箱のベッドに移しました。
少し暖まり過ぎになり始めていたお父さんの胸元から離れ、ベッドに移されると、すーっとした感じがして気持ちは良かったのだが、目は半分醒めてしまった。
安堵感が奪われた感じがして僕は「クウーッ」と、甘えた声を出してしまった。
あわててお父さんは「大丈夫だよ、ここに居るよ」と、ソファーに横になりながら手を差し出してくれた。
僕はお父さんの指先をペロペロ舐めながら、又うとうと眠り始めた。
お父さんがそうーっと手を抜こうとすると、甘えてダダをこね「クウーッ」と、口をペチャペチャと動かし、少し眠りが戻されそうになる。
その様子にお父さんは腹這いになって、手を更に深く差し伸べてくれた。
今度はその指先をくわえたまま眠り始めた。
母犬の乳首にしゃぶりついたまま眠ってしまった子犬の様にである。
お父さんはうとうとしながらも、満足そうに僕の様子を見ていた。
そして、朝6時半頃お母さんが起きてくるまで、その眠りは覚めることが無かった。
お父さんが僕に分からない様にそうーっと手を抜き、寝室に戻って眠りにつけたのは夜中の3時をまわってからの様であった。
その後、お父さんのこの寝不足の原因は、3日続いたのである。
そしてこの3日間は、僕達5匹の幼い兄弟にとって、それはそれは大切な特別な日となったのである。